皆さんは、杉原千畝という人物をご存知でしょうか。

知らないという方には言い方をかえると「6000人のビザ」というと、「ああ聞いたことがある」という方もいらっしゃるでしょう。

時々テレビで思い出したように放送される杉原千畝さんの物語。

日本政府の反対を押し切って、ユダヤ人にビザを発給したという話。

最近、ご縁があって、このことについて触れることがあるのですが、いろいろと勉強になっていますので、今日はそのことをちょっと。

簡単にいうと、「テレビとかで放送されている内容と史実は、かなり違う」ということです。

よく、このように言われます。
1)ドイツの大量虐殺から逃れたユダヤ人を、
2)日本国政府の反対を押し切って、
3)6000人にビザを発給した。

この3つともが違います。

1)について。
ドイツの大量虐殺(よくホロコーストと言われる)は、1942年から。
杉原千畝がビザを発給したのは、1940年。

ほら!大量虐殺は、杉原千畝がビザを発給したときよりも後の話です。

それと、ユダヤ人だけではなく、ポーランド人やロシア人もいました。
つまり、当時の戦火から逃れようとする「戦争難民」というのが正しい表現なのです。

2)について。
日本政府は一切反対はしていません。
当時、国際的に決められていた規則があり、その規則を守ってください。
というのが、日本国政府からの申し出でした。

それに、もし、日本政府が反対しているのであれば、約6000人もの外国人が日本の地を通過したのですが、それ自体を許さないはずです。
6000人にもわたる外国人が日本国内に入ってきたら、「やめろ!」って言われるはずで、「上陸させるな」ともなるわけです。

にも関わらず、6000人もの人たちがなんの不自由もなく、うまく日本を通過して海外に逃れていった事実を考えたら、日本政府が反対するどころか、なんとかしようと思ったのではないかと思います。

3)について。
6000人にはビザを発給していません。
発給リストに記載されている数は2139人分です。
ではなぜ、6000人か。
本来は一人に1冊のパスポートですが、
1冊のパスポートで概ね3名の家族が移動できたからです。
そこから約2000冊のパスポート×3名=6000人となっているわけです。
だから6000人というのは、あくまでも「総定数」です。

というように、ドラマとかで脚色された内容のまま、必要以上にヒーロー扱いされている部分もあり、「あれあれ?違うのに」ということは所々あります。

では、一人で頑張ったのか?ということですが、ビザを発給した人は、杉原千畝以外にもいます。

戦争難民を助けたのは、杉原千畝さんだけではなく、別なきっかけもあったわけで、そのきっかけから始まるストーリーとアメリカや上海に逃げていく過程で、日本人がどれだけユダヤ人に対して、移動を支援し、もてなし、勇気をもってアメリカに送り届けたかということが、わかるのです。

ヤン・ツバルティンデクという人物。オランダの大使ですが、この方が、最初のきっかけを作ったわけです。
ビザを出すにしても、「どこに行くのか?」が明確になっていないと、ビザは出すわけに行かないわけです。当然ですね。どこに行くか決まっていないのに、ビザをくれって言っても、それは無理な話です。

で、このヤンさんが、中米にキュラソーというオランダの領地があるので、そこに行ったら、その領地の一番偉い人は、入国していいよ、って言うかもね。

っていう内容で、ユダヤ人の人たちに証明書を発行したことが、ことの発端なんです。

で、目的には決まった!
あとはその目的地までどのルートで行くか、っていうことがポイントになります。

結局、国際法的には、キュラソーに限らず、どこかに行くとなったら、出発地から目的地までを一気に一筆書きで通れることと、それぞれの通過ポイントを通るための証明(ビザ)が必要になるのです。だから、そのルートを明確にしないと目的地まで行けないのですね。

だから、考えてみてください。ヤンさんの出した「もしかしたら、OKでしょう!」という状況では、完全にそこまでたどり着くことができないわけです。そこまでの通過ができる許可がないからです。

でも、ヤンさんが勇気を持って証明書を発行したので、それがきっかけとなって、ユダヤの方々に勇気を与え、キュラソーまでのルートを線でつなごうと思えるようになったわけです。

で、ユダヤの方々は考えたのです。

リトアニアかロシアに行こう。そしてモスクワから東に向かい、ユーラシア大陸を横断して、極東の「ウラジオストク」に行く。

それから日本に駆け込んで、そのあと、アメリカに行って、それでキュラソーという中米の海にうかぶオランダ領の島に行こうってことになったのです。なったというより、そうやってルートを探したわけです。ユダヤの皆さんが。

そうなると、次に、そのルートの各地を通過するビザを手に入れないといけないわけです。

しかし、ビザは、その国が発行しないと手に入りません。
当時は戦争のまっただ中。ドイツが入って来て、ロシアまで侵攻してくるポーランドに駐在員を置く国などないわけです。それまで駐在員がいた領事館、大使館などは、それぞれの本国に戻るか別の国に移動するなどして、すでにポーランドには領事館などの出先機関はなくなっていたわけです。

そうなると、領事などがいる国の出先機関に駆け込んで、なんとかビザを手に入れたいと言うことになります。

そこで、まだ、リトアニアに残っていた領事館が、日本だったのです。
そこに杉原千畝さんが領事代理として駐在していました。

日本であれば、格好のルート。
日本を通過することを許可いただくビザ(査証)が手に入れば、まずは日本までは行ける。
日本の領事からそのビザをもらおう。となったのです。

もちろん、ヤン・ツバルティンデクが発行したキュラソーでの入国証明書を持ってです。

で、日本領事館の前に集まって来たユダヤの人たちを見つけたのが杉原千畝さんです。

さあ、彼はどうするのか?
ユダヤの方々は、リトアニアを出国できるのか、そして日本へ行けるのか。

当時、リトアニアにいたポーランド人はやく20万人。
彼ら全員が、助かるのか?

杉原さんのところに行くまでには、このような経緯があったわけです。

その上で、杉原さんのビザ発給の動きに繋がるのです。

さて、その後戦争難民の皆さんは、どうやって杉原さんを説得しビザ発給をしてもらったのか。また、杉原さんはどうやってビザを発給したのか。

というわけで、この話の続きは次回の講釈で!